みどりの日(昭和の日、だったっけ)

 天神。
 街はどんたく準備。
 ゴールデンウイークともなれば、配りものも不作である。
 人出は多いものの、他所から来たと一目でわかる人たちが多いのがこの時期の特徴である。

 裁判員制度はいらない、の運動の人々が、スピーカで話していた。

 確かに、今の裁判員制度の運用には問題がある。
 たとえば、短期審理の裁判員裁判ではこういうことが起きるのではないか。
 ある人の身近に起きた事件について、特に警察や検察や裁判所に呼ばれなかったので、まあそんなものだと思っていたところ、マスコミなり人づてなりで聞かされた裁判での話が(その人にしてみれば)まったく意外なことに、自分の見聞きしたものと違っていて、どうも自分の持っている情報あるいは資料は、誰かによって意図的に隠されているか、知られていないものらしい。この真実は裁判の結果を左右しそうだ、という場合。
 そういうことがわかって、動き出そうとしても、短期審理の裁判員裁判による一審には間に合わないことが多いのではないかと思う。その情報は、二審に持ち越され、結果として、公正な判決に時間がかかってしまう。
 貧乏主婦の想像する範囲ではこういうことを思いつくのであるが、だからといって、裁判員制度そのものを否定するものではない。
 問題があるのは、裁判員制度という考えではなく、あくまで運用方法なのだ。
 
 裁判員制度ができたのは、裁判官と検察官によって進められる刑事裁判の少なからざる案件が「まずいこと」になっているせいだと貧乏主婦は邪推している。
 裁判官も検察官も、全員が常識人とは限らないこと。裁判官と検察官の間には「人間関係」http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=512033&log=20070210があり、それが裁判に影響することもありうること。
 大体この2つの理由で、貧乏性にして心配性の貧乏主婦は、専門家のみによる裁判について懐疑的なのである。従って、裁判員制度を支持するのだ。

 裁判員制度に反対の人々は、たぶん裁判官や検察官や弁護士を全面的に信用していらっしゃるのだと思う。その点じつに幸いなことで、羨ましい限りである。