他人の不幸

 ここ数日、ニュースは新聞だけで、テレビではあまり見ないようにしている。ワイドショーの時間もテレビは消してる。例の百道大橋追突転落事故と、徳山高専の女の子が殺された事件ばっかりやってるのがみえてるからだ。
 ひとが死ぬのはどんな理由であれ、それが寿命だったそんな運だったと諦めるしかない。でも、殺されるという死に方はいやだな。警察があちこちにあることないこと聞いてまわるから。
 全国ニュースにでもなれば、週刊誌もやってくる。自分のことが嫌いだった人に悪意たっぷりに交友関係を話されてしまうかも知れないし、へんてこな手紙を書いた昔のボーイフレンドのところにも事情を聞きに行かれてしまうかも知れないし。
 で、あることならまだいいが、ないことないことを面白おかしく報道されてしまったりするのではないか。つまり、殺されると二度も三度も殺されることになるから、おちおち成仏してもいられない。そんな死に方は避けたい。(といっても避けられるのか?)
 殺された徳山高専の女の子も、かわいくて人気があって頭が良くて国立大学への編入も決まってて、両親とも公務員で、経済的心配も(たぶん)ない。まあ、世間から見れば人生順風満帆って感じで、勝ってる方の人たちといっても差し支えないだろう。
 だからこそ、ワイドショーで、同情を交えて、あれこれ報道されるに違いない。
 世の中の人たちは、勝ってた人たちの人生の暗転ってのが好きなのだ、たぶん。
 だから、幸せな5人家族と、まじめなイケメン公務員と堅実で信用ある両親が一転して、子供を3人いちどに失った気の毒な両親と、最低の加害者とその親になった人たちの話を、延々と見続けるのだ。
 そういうものを見る気がしないのは、私が下世話な話が嫌いということではなく、まだ、私が、「勝ってる」方のグループに行くことを諦めてないからなんだろうと思う。
 こんなものがテレビ報道されるのを、煎餅などを手に「気の毒ねぇ可哀相だわ」といいながら、その実好んで見るようになったら、絶対に這い上がれない。そんな気がするのだ。